

その冬、私は分身と過ごした
2025年11月22日(土) ー 12月5日(金)
シアター・イメージフォーラム(渋谷)にて公開
連日レイトショー(1週目[20:05]/2週目 [20:45])














美大で講師を務めながら独自の方法論を追求し、映画制作・上映を続けてきた、青石太郎監督の映画『Lilypop』が、2025年11月22日より、シアター・イメージフォーラムにて公開。
本作は監督が授業を行う武蔵野美術大学で出会った、実在の美大生たちから着想を得て制作されました。実際の関係性・実生活・制作物をもとに、自由で多感な時期における共生の喜びと困難の物語が書かれ、それを本人達が演じています。映画撮影という一連の出来事の中で、彼女達が虚実を超えて、また新たな関係に進んでいく時間が記録されました。被写体の彼女達は現実と物語で別のイメージに分裂し、映画はそれらを等しく映し続けます。身の回りに映像が溢れかえる現在において、私たちはそこに映されているイメージとどのように関係できるか。どのように疑い、どのように愛し直すことができるのか。本作『Lilypop』はこれらを実践的に追求し、観客ひとりひとりに新たな視点を提案します。
撮影は数名のスタッフ、機材はiPhoneのみ(アフレコのため録音機材もなし)で行われました。このミニマムな体制において、映画は私たちが普段小さなカメラで行っているように世界と接触しています。出演者が実際に暮らしていた家が主な舞台となり、ある美大生の実態、コロナ禍の生活環境、早朝から深夜にかけての郊外の町の様子が、まさにその状況を生きる者の目線、時間軸で撮られ、ホームビデオのような情緒を宿しました。現実と地続きな映画設計、被写体の親密さはジョナス・メカスやホン・サンスの映画を彷彿とさせます。
Lilypop (2022 | 103分 | 日本語 | カラー | 16:9 | ステレオ)
監督:青石太郎 / 出演:鈴木理利子、渡邉龍平、松下絵真、秋田海風、大田晃 / 撮影:北尾和弥、藤田恵実 / 制作:吉本香音、塩野歩実
宣伝協力:ALFAZBET(アルファズベット) / ビジュアルデザイン:久保心花 / WEBサイト:past inc.
■Instagram @lilypop_image
■X(Twitter)@lilypop_image
▼11月22日(土)-12/5(金) 連日レイトショー(1週目[20:05]/2週目 [20:45])
シアター・イメージフォーラム(渋谷) 東京都渋谷区渋谷2-10-2
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<イベント情報>
各回上映終了後、本作監督の青石太郎とゲストのトークを開催。

1989年、東京都墨田区出身。2012年、武蔵野美術大学造形学部映像学科卒。2016年より武蔵野美術大学映像学科非常勤講師。
主な作品
『手の中の声』(2023/18分)
『Lilypop』(2022/103分)
『交歓距離』(2019/84分)
『時空は愛の跡』(2018/158分)
『自由』(2017/ 227分)
『ジェット ストリーム』(2014/ 41分)
『PLEASE PLEASE ME』(2012/ 84分)
主な上映
グループ上映会「発光ヶ所」@三鷹SCOOL (2024)
イメージフォーラム・ヤングパースペクティブ (2014、2017)
第9回 大阪アジアン映画祭・特集上映 「青石太郎という才能」(2014)
第34回 PFF・日本ペンクラブ賞 (2012)。
■公式HP

美大に通ってたころに抱えていた特有の空気感がたまらなくなつかしくなった。最近はもうとっくにどっかにいってしまった、すべてがどうでもよくないということ。不思議な時間について。
エンドクレジットの後、しばらく不思議な余韻に包まれた。
カメラがとらえる光景は人間が気に留めないような細部を機械的に映し出す。その潜在的な世界の断片は、通常は映画的文法によって一編の物語に仕立てられるのだろうが、Lilypop を見ている時、日常と地続きのように感じられた。携帯での撮影ゆえか、演技によるものか。いま見ているのか、思い出しているのか、その境界が曖昧になっていくようだった。何ともクセになる映像です。
コロナ禍の時の静けさ、寂しさ、どこにも行けない気持ち、閉ざされた中の親密さが、この映画には詰まっている。iPhoneで撮影された生々しい(見慣れていることの生々しさかもしれない)映像に、声だけがぽっかり浮かびあがる。二人の声のトーン、質感に親密さがこもる。
ここには、夜の本当の暗さが写されている。夜の道を歩く時、懐中電灯と家々の光がぽつりぽつりと入り込む以外は闇だ。わたしもかつて、同じ美大に通う学生だったからわかるのだけれど、あの上水路の道は本当に暗い。青い電灯がところどころついているけど微かな光で、足元によく目を凝らさないと枝や根につまずきそうになる。
あの真っ暗な道で、カメラのフラッシュがそれぞれを照らす光の中に、二人の感情が一瞬輝く。眩しくて、暗闇をさらに暗闇にしてしまうような輝きだけど、うつくしい光だった。
みんな、知らない間に知らなくなる。さみしさがあるから眼差しがあるのだと、この映画を観て知った。
あの人の分身も、記憶みたいに飛び回るゴーストフレアも、親密さをたたえて遠くに光っている。
以前、iPhoneで撮った拙作が「iPhoneは現代における仮面(ペルソナ)の表象である」と評されたことがあった。もともとはSNSにおけるセルフィーの文脈で語られていたが、その後、コロナ禍での不織布マスクがもつ二重性も加わり、「マスク=仮面」という意識がいっそう前景化していったのを覚えている。そのときの印象を思い出すほどに、この『Lilypop』は、似て非なる精度でその地点に到達している。
演者がカメラの前を横切るときに生じる、あのブレる瞬間もたまらない。あのショットに触発されて、青石監督には内緒で、送ってもらった視聴リンクを自分のiPhoneで再生してみた。映画鑑賞の方法としては顰蹙を買うかもしれないが、なぜそんなことをしたかというと、自分のアルバムに紛れ込むような親密さが宿り得るのか、そのリアリズムの効果を確かめたかったからだ。しかし再生してみると、iPhoneらしからぬ整音と見事なフレーミングによって、手のひらの中に残ったのは紛れもない「映画」だった。
メディアの選択による距離感の演出とともに、アフレコという行為についても考えたい。After recording── 一度起こった出来事を、再び、本人(おそらく)の声でなぞり直すこと。ドッペルゲンガーの訳語が「二重身」であることを思えば、全編を通してアフレコという手法をとること自体が、作品のモチーフを体現しているようでいて、しかし劇中同様、どこかで微かにズレている。そのわずかな齟齬が、強く印象に残る。虚実が交錯していたとしても、出演者たちが関係をもう一度「生き直す」その過程に、かつての自分たちを外側から見つめるような、幽体離脱めいた時間が流れていたのではないかと想像する。
美大生のりりかが、同居人エナを撮った写真のタイトルを「Love & Pop」にしたいと言うくだりがある。一時代前の映画や写真史へのレファレンスの散りばめ方も心地よい。「Love」が「Lily」へと変わったのは、百合の花言葉に託されたメッセージなのか、それとも照れ隠しの二乗なのか。なぞり、そして打ち消し合うことで立ち現れる視点──マスクの下に潜む表情のような、その曖昧さもまた、この作品の愛すべき余白となっている。
冬の緑道はとても寒そうなのに、りりかとえなちゃんが歩いていくのを見ていると暖かくなってくる。
未知の存在に立ち向かう2人、素直な言葉が眩しい。
それでも得体の知れない何かは、ふとした時に現れる。その正体は曖昧に浮かんだり、ふつふつと湧き上がってくる感情の衝突だろうか。
追われるのはなんだか怖い。未知の閃きが存在する世界にいたいけれど。
静かで地味な映画である。でもよく観れば内容はとても深い。世の趨勢に逆行するこういう映画をiPhone片手にひょうひょうと作り上げてしまう青石太郎の作家性の強さと肝の座り方に、底知れぬ可能性を感じる。
全編アフレコなのにこんなにドキュメンタリーっぽくて生々しいのはなんでなの?いや、こんなにドキュメンタリーっぽくて生々しいのに全編アフレコなのはなんでなの?と問うべきか。
観たことのないものを観たという気がする。
冬の夜道を二、三人がぽつぽつ喋りながら歩いている。『Lilypop』を見た私のなかには、この時間がとくに滲んでいる。これまでに見てきた青石さんの映画でも、人々が歩く長い時間が印象的だったけれど、寒い夜をさまようこの映画の人々はとくにいい。実際に大学の同級生である彼女らが歩きながら交わす会話には、一般的な映画のつくり方からは浮かんでこない微温の親密さが感じられるとともに、その温かさが冷めていく、またはすでに冷めてしまったかもしれない寂しさも漂っている。
りりかが制作している写真集のタイトルは『Love&Pop』というらしい。写真のスタイルや人間関係において、りりかは重くて力(Power)を伴うLoveと、より自由で身軽なPopを両立させようとしている。けれど指導教員が「Loveに対して、Popは軽さでごまかそうとしている。だからPopとは逆の、他の人が目を背けるとことんパーソナルなものに向かうべきでは?」と言うように、周囲の人々はなんとなくLoveのほうを期待している。同居しているえなや、告白してきたみつるとすれちがっているのは、彼らがLoveをもとに関係を明確にしたいからだろう。りりかはそれに控えめに抵抗する。LoveでもPopでもある未分化な関係、愛おしいと思えるいまここの関係を引き延ばそうとする。けれど、そうした淡い時間が過ぎ去る予感はずっとある。
鏡やデジカメ、そして映画という複製装置がたびたび出てくるのは、時が経てば消えていく自分たちの関係を映し、複製し、保存しようとするりりかたちの欲望のあらわれだろうか。風呂に入ったり、怒ったりしているプライベートのえなを強引に写そうとするりりかにも、告白の代わりに映画を用いようとするみつるにも、どこかうしろめたさがつきまとう。彼らは自分たちの願望のために映像に頼ろうとしている。そのうしろめたさは、現実の人間関係をもとに本人たちに演じさせるこの映画が持っている一種の危うさにつながる。えなのドッペルゲンガーは、えなとの生活に対するりりかの願いが具現化したものだと思うが、この映画自体が現実の人間関係のドッペルゲンガーになろうとしている気がする。本人が自分のドッペルゲンガーに出会うと死んでしまうといわれているけれど、ドッペルゲンガーを探しに行く際にえなが「殺し合いや」と言うように、途中からどっちのえなが本体がわからなくなるように、この映画は現実と虚構をかぎりなく重ね合わせることで、両者を曖昧にする。
アフレコによる浮遊した音声がずっと気になる。もう過去のものになった映像に、違う時空にいる登場人物たちが声をあてているようで、彼らの存在はどこが現実離れしている。作中でたびたび霊感があるかないかという会話がされるが、彼らこそ幽霊のように不確かだ。この映画がずっと映していたのは、かつての関係性の幽霊たちのように思えてくる。りりかが終盤に写真をめくるとき、どの光景もついさっき見ていたはずなのにずっと遠くに行ってしまったようで、それでもその時その場所その関係が、過去も現在も、重さも軽さも、LoveもPopも区別をつけず、こちらに迫ってくる。いまここで私だけに見えているはずのものが、いつかどこかの誰かの前にふと蘇る、そんな幽霊的現前をこの映画は夢見る。りりかが夜道を歩いているときに不意に光るシャッターは、一体誰が炊いたのだろう。『Lilypop』は、人と人が寄り集まるときに生まれる言葉にできない関係を、その関係を再び映そうと願う映画の可能性を、暗い道をさまよいながら探している。
青石くんの映画にはいつも感心する。どこか微笑ましく思い、少し物悲しく感じる。
彼が撮るのは身近にいる美大生で、手軽な機材であるiPhoneを主に使う。まさにそんな映像の組み立てが、見事に映画になる。そして、不思議な厳格さをたたえている。深遠さ、と言ってもいいのかもしれない。大袈裟だが、名人芸だなと思う。
彼の映画には音楽が流れない、音楽に流されない。登場する人々の声は、アフレコという手法で、もう一度演じ直される。だからなのだろうか、近しい被写体であるのに親密さに頼らず、距離を置き、遠くから見ているように感じる。でも、突き放しているとか、冷徹に観察するということでもなく(いや、少しそういう部分もないわけではないのだが)、離れてそわそわしているような、近づくのを留まっているという感じだ。そう感じるのは、間にあるiPhoneのレンズがとても小さいからなのかもしれない。
映像はずいぶん前からデジタルで記録/再生・表現されるのが当たり前になり、巷にあふれて現実を侵食している。その一因が、スマホという便利なツールにあるのは疑いようもないが、例え高級機材を使って大掛かりな制作をしても、環境の変容は本質的に免れ得ない。それでも映画は、今もかつての形式を保とうと、旧来の制度に寄りかかっている。そのいびつさに僕は違和感があり、何もかもデータに置き換えられていく世界にも、そもそも馴染めず逡巡している。だから、青石くんは果敢だなと思う。
そのレンズは、彼と被写体を隔てるにはいささか小さい。しかし、レンズを介して世界と向き合うことは確かであり、その約束を律義に守って、彼は生真面目に見つめる。いや、あるいは見つめずに、生真面目にそこに居るのかもしれない。いずれにせよ、ミニマムな映画作りを従来のやり方に落とし込むのでなく、対人関係の手段として組み立て直す模索をしてきたのだと思う。その過程では、必ずしもいつも上手くやれたとは限らないはず。iPhoneの向こう側もこちら側も、多少なりとも辛酸を舐めて来ただろう。それでも青石くんは、近しい者たちのふる舞いや、さ迷いを描くことで、その中に希望のようなものを見出そうとしている。ひたむきだと思う。
現在の先には確実に未来が在り、それは過去から続いている。そんな直線的なイメージは、もう一概には信じられなくなった。データ化された世界はあまりに不確かで、酷薄で、ひょっとして唐突に分身が現れてしまうかもしれない。そんな日常を仮構しながら、青石くんはいつも若い人たちに目を向ける。そして、過ぎ去ったことや得られなかった何かへの思いをそこに潜ませる。彼はきっと現在の、その先に続くものを信じているような気がする。それが直線ではなくとも。そんな青石くんの映画は、ちょっと切なくて、僕は好きだ。
COMMENT
Hana Watanabe(ビジュアルアーティスト / tamanaramen)
美大に通ってたころに抱えていた特有の空気感がたまらなくなつかしくなった。最近はもうとっくにどっかにいってしまった、すべてがどうでもよくないということ。不思議な時間について。
鈴木理策(写真家)
エンドクレジットの後、しばらく不思議な余韻に包まれた。
カメラがとらえる光景は人間が気に留めないような細部を機械的に映し出す。その潜在的な世界の断片は、通常は映画的文法によって一編の物語に仕立てられるのだろうが、Lilypop を見ている時、日常と地続きのように感じられた。携帯での撮影ゆえか、演技によるものか。いま見ているのか、思い出しているのか、その境界が曖昧になっていくようだった。何ともクセになる映像です。
清原惟(映画監督・映像作家)
コロナ禍の時の静けさ、寂しさ、どこにも行けない気持ち、閉ざされた中の親密さが、この映画には詰まっている。iPhoneで撮影された生々しい(見慣れていることの生々しさかもしれない)映像に、声だけがぽっかり浮かびあがる。二人の声のトーン、質感に親密さがこもる。
ここには、夜の本当の暗さが写されている。夜の道を歩く時、懐中電灯と家々の光がぽつりぽつりと入り込む以外は闇だ。わたしもかつて、同じ美大に通う学生だったからわかるのだけれど、あの上水路の道は本当に暗い。青い電灯がところどころついているけど微かな光で、足元によく目を凝らさないと枝や根につまずきそうになる。
あの真っ暗な道で、カメラのフラッシュがそれぞれを照らす光の中に、二人の感情が一瞬輝く。眩しくて、暗闇をさらに暗闇にしてしまうような輝きだけど、うつくしい光だった。
続きを読む
金子由里奈(映画監督)
みんな、知らない間に知らなくなる。さみしさがあるから眼差しがあるのだと、この映画を観て知った。
あの人の分身も、記憶みたいに飛び回るゴーストフレアも、親密さをたたえて遠くに光っている。
荒木悠(アーティスト・映画監督)「打ち消し合いの美学」
以前、iPhoneで撮った拙作が「iPhoneは現代における仮面(ペルソナ)の表象である」と評されたことがあった。もともとはSNSにおけるセルフィーの文脈で語られていたが、その後、コロナ禍での不織布マスクがもつ二重性も加わり、「マスク=仮面」という意識がいっそう前景化していったのを覚えている。そのときの印象を思い出すほどに、この『Lilypop』は、似て非なる精度でその地点に到達している。
演者がカメラの前を横切るときに生じる、あのブレる瞬間もたまらない。あのショットに触発されて、青石監督には内緒で、送ってもらった視聴リンクを自分のiPhoneで再生してみた。映画鑑賞の方法としては顰蹙を買うかもしれないが、なぜそんなことをしたかというと、自分のアルバムに紛れ込むような親密さが宿り得るのか、そのリアリズムの効果を確かめたかったからだ。しかし再生してみると、iPhoneらしからぬ整音と見事なフレーミングによって、手のひらの中に残ったのは紛れもない「映画」だった。
メディアの選択による距離感の演出とともに、アフレコという行為についても考えたい。After recording── 一度起こった出来事を、再び、本人(おそらく)の声でなぞり直すこと。ドッペルゲンガーの訳語が「二重身」であることを思えば、全編を通してアフレコという手法をとること自体が、作品のモチーフを体現しているようでいて、しかし劇中同様、どこかで微かにズレている。そのわずかな齟齬が、強く印象に残る。虚実が交錯していたとしても、出演者たちが関係をもう一度「生き直す」その過程に、かつての自分たちを外側から見つめるような、幽体離脱めいた時間が流れていたのではないかと想像する。
美大生のりりかが、同居人エナを撮った写真のタイトルを「Love & Pop」にしたいと言うくだりがある。一時代前の映画や写真史へのレファレンスの散りばめ方も心地よい。「Love」が「Lily」へと変わったのは、百合の花言葉に託されたメッセージなのか、それとも照れ隠しの二乗なのか。なぞり、そして打ち消し合うことで立ち現れる視点──マスクの下に潜む表情のような、その曖昧さもまた、この作品の愛すべき余白となっている。
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村上由規乃(俳優)
冬の緑道はとても寒そうなのに、りりかとえなちゃんが歩いていくのを見ていると暖かくなってくる。
未知の存在に立ち向かう2人、素直な言葉が眩しい。
それでも得体の知れない何かは、ふとした時に現れる。その正体は曖昧に浮かんだり、ふつふつと湧き上がってくる感情の衝突だろうか。
追われるのはなんだか怖い。未知の閃きが存在する世界にいたいけれど。
想田和弘(映画作家)
静かで地味な映画である。でもよく観れば内容はとても深い。世の趨勢に逆行するこういう映画をiPhone片手にひょうひょうと作り上げてしまう青石太郎の作家性の強さと肝の座り方に、底知れぬ可能性を感じる。
全編アフレコなのにこんなにドキュメンタリーっぽくて生々しいのはなんでなの?いや、こんなにドキュメンタリーっぽくて生々しいのに全編アフレコなのはなんでなの?と問うべきか。
観たことのないものを観たという気がする。
新谷和輝(映画研究者)「関係性の幽霊」
冬の夜道を二、三人がぽつぽつ喋りながら歩いている。『Lilypop』を見た私のなかには、この時間がとくに滲んでいる。これまでに見てきた青石さんの映画でも、人々が歩く長い時間が印象的だったけれど、寒い夜をさまようこの映画の人々はとくにいい。実際に大学の同級生である彼女らが歩きながら交わす会話には、一般的な映画のつくり方からは浮かんでこない微温の親密さが感じられるとともに、その温かさが冷めていく、またはすでに冷めてしまったかもしれない寂しさも漂っている。
りりかが制作している写真集のタイトルは『Love&Pop』というらしい。写真のスタイルや人間関係において、りりかは重くて力(Power)を伴うLoveと、より自由で身軽なPopを両立させようとしている。けれど指導教員が「Loveに対して、Popは軽さでごまかそうとしている。だからPopとは逆の、他の人が目を背けるとことんパーソナルなものに向かうべきでは?」と言うように、周囲の人々はなんとなくLoveのほうを期待している。同居しているえなや、告白してきたみつるとすれちがっているのは、彼らがLoveをもとに関係を明確にしたいからだろう。りりかはそれに控えめに抵抗する。LoveでもPopでもある未分化な関係、愛おしいと思えるいまここの関係を引き延ばそうとする。けれど、そうした淡い時間が過ぎ去る予感はずっとある。
鏡やデジカメ、そして映画という複製装置がたびたび出てくるのは、時が経てば消えていく自分たちの関係を映し、複製し、保存しようとするりりかたちの欲望のあらわれだろうか。風呂に入ったり、怒ったりしているプライベートのえなを強引に写そうとするりりかにも、告白の代わりに映画を用いようとするみつるにも、どこかうしろめたさがつきまとう。彼らは自分たちの願望のために映像に頼ろうとしている。そのうしろめたさは、現実の人間関係をもとに本人たちに演じさせるこの映画が持っている一種の危うさにつながる。えなのドッペルゲンガーは、えなとの生活に対するりりかの願いが具現化したものだと思うが、この映画自体が現実の人間関係のドッペルゲンガーになろうとしている気がする。本人が自分のドッペルゲンガーに出会うと死んでしまうといわれているけれど、ドッペルゲンガーを探しに行く際にえなが「殺し合いや」と言うように、途中からどっちのえなが本体がわからなくなるように、この映画は現実と虚構をかぎりなく重ね合わせることで、両者を曖昧にする。
アフレコによる浮遊した音声がずっと気になる。もう過去のものになった映像に、違う時空にいる登場人物たちが声をあてているようで、彼らの存在はどこが現実離れしている。作中でたびたび霊感があるかないかという会話がされるが、彼らこそ幽霊のように不確かだ。この映画がずっと映していたのは、かつての関係性の幽霊たちのように思えてくる。りりかが終盤に写真をめくるとき、どの光景もついさっき見ていたはずなのにずっと遠くに行ってしまったようで、それでもその時その場所その関係が、過去も現在も、重さも軽さも、LoveもPopも区別をつけず、こちらに迫ってくる。いまここで私だけに見えているはずのものが、いつかどこかの誰かの前にふと蘇る、そんな幽霊的現前をこの映画は夢見る。りりかが夜道を歩いているときに不意に光るシャッターは、一体誰が炊いたのだろう。『Lilypop』は、人と人が寄り集まるときに生まれる言葉にできない関係を、その関係を再び映そうと願う映画の可能性を、暗い道をさまよいながら探している。
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七里圭(映画監督)
青石くんの映画にはいつも感心する。どこか微笑ましく思い、少し物悲しく感じる。
彼が撮るのは身近にいる美大生で、手軽な機材であるiPhoneを主に使う。まさにそんな映像の組み立てが、見事に映画になる。そして、不思議な厳格さをたたえている。深遠さ、と言ってもいいのかもしれない。大袈裟だが、名人芸だなと思う。
彼の映画には音楽が流れない、音楽に流されない。登場する人々の声は、アフレコという手法で、もう一度演じ直される。だからなのだろうか、近しい被写体であるのに親密さに頼らず、距離を置き、遠くから見ているように感じる。でも、突き放しているとか、冷徹に観察するということでもなく(いや、少しそういう部分もないわけではないのだが)、離れてそわそわしているような、近づくのを留まっているという感じだ。そう感じるのは、間にあるiPhoneのレンズがとても小さいからなのかもしれない。
映像はずいぶん前からデジタルで記録/再生・表現されるのが当たり前になり、巷にあふれて現実を侵食している。その一因が、スマホという便利なツールにあるのは疑いようもないが、例え高級機材を使って大掛かりな制作をしても、環境の変容は本質的に免れ得ない。それでも映画は、今もかつての形式を保とうと、旧来の制度に寄りかかっている。そのいびつさに僕は違和感があり、何もかもデータに置き換えられていく世界にも、そもそも馴染めず逡巡している。だから、青石くんは果敢だなと思う。
そのレンズは、彼と被写体を隔てるにはいささか小さい。しかし、レンズを介して世界と向き合うことは確かであり、その約束を律義に守って、彼は生真面目に見つめる。いや、あるいは見つめずに、生真面目にそこに居るのかもしれない。いずれにせよ、ミニマムな映画作りを従来のやり方に落とし込むのでなく、対人関係の手段として組み立て直す模索をしてきたのだと思う。その過程では、必ずしもいつも上手くやれたとは限らないはず。iPhoneの向こう側もこちら側も、多少なりとも辛酸を舐めて来ただろう。それでも青石くんは、近しい者たちのふる舞いや、さ迷いを描くことで、その中に希望のようなものを見出そうとしている。ひたむきだと思う。
現在の先には確実に未来が在り、それは過去から続いている。そんな直線的なイメージは、もう一概には信じられなくなった。データ化された世界はあまりに不確かで、酷薄で、ひょっとして唐突に分身が現れてしまうかもしれない。そんな日常を仮構しながら、青石くんはいつも若い人たちに目を向ける。そして、過ぎ去ったことや得られなかった何かへの思いをそこに潜ませる。彼はきっと現在の、その先に続くものを信じているような気がする。それが直線ではなくとも。そんな青石くんの映画は、ちょっと切なくて、僕は好きだ。
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